「できること」と「するべきこと」



先日、他大のリング演者の方とリングの見やすい・見えにくいという話をした際に、ふと、燕(新潟県燕市)の金属研磨士さんの話を思い出した。

燕市は、古くから金属加工業が盛んな町で、世界でもトップレベルの研磨技術を持った職人さんが集まっている。ipod本体の鏡面加工もあの町でやっているし、ノーベル賞晩餐会で使われるカトラリーも燕で製作されている。燕の職人さんの腕をもってすれば、顕微鏡で見ても凹凸が見えないほど、それはもうツルツルピカピカに磨き上げることができる。

その高度な技術をもって最高級の金属製ビールジョッキを作ろうとしたことがあったらしい。鏡と見紛うほどのピカピカの綺麗なジョッキを作った。でも、ビールを注いでみたら問題が発覚した。

泡が立たない。じつは、ビール容器は、表面にある程度の凹凸がないと泡が立たないらしい。そういえば、シャンパングラスも、綺麗に一筋の泡が出るようにわざと底に傷をつけている、という話を聞いたことがある。ツルツルピカピカにすればいいというわけじゃないんだそうだ。

その失敗をうけて、内側だけわざと荒い研磨を施したジョッキができた。見た目はピカピカ、それでいて、泡もよく立った。

リングも同じようなところがあって、昼間の明るいところでは、鏡のように輝くリングは美しく見える。でも、そういうリングは、ステージ上では光の点にしか見えない。例のビールジョッキのように、わざと荒い研磨にしたほうが反射面が増えてよく見える。

現在発売されている各社のリングには、そういうことを考慮されたものはほとんど無い。唯一そういう効果が感じられたのは、僕が愛用している八本三千円の安物リングだけ。それも、わざとそうしたというよりは、コストを削減した結果、偶然そうなったと考えたほうが正しいだろう。手にとった時の美しさだけではなく、ステージ上での見え方も考えられたリングができたらいいな、と思う。

少し飛躍するが、この話から学んだことは、必ずしも「できる=するべき」にはならないということ。難しいことができるからといって、それを全部詰め込めば良いルーティーンになるかと言ったら全然違う。できるからやるんじゃなくてそこで何が最適かを考えてやるべき。そして、何が最適かはその時々で変わる。ツルピカ綺麗にする技術があるからと言って、いつもそうするのが最適とは限らないように。

とはいえ、できることはやりたくなってしまうのが人の性。それが自分にしかできないような技術であればなおさらやりたくなる。(※注)切り捨てることはとても勇気のいることだけど、名人と凡人の違いはそのへんにあるのかな、とも思った。そもそも、そうするのが最適という場合に惜しまず切り捨てることができるかどうかは、誰のために・何のためにそれをやっているのか、という本人の心持ちで決まるんだろう。自分がやりたいことをやりたいという人と、観る人が少しでも良いと思えるようにやりたいという人では、優先させる点が全然違う。

他業種の人の話とはいえ、というか、他業種だからこそ、勉強になることは多いな、と感じた。



余談。
前にも書いたが、いつか燕の職人さんにリングを作って欲しい。世界最高の研磨技術をもった上で、「磨き過ぎないこと」の大切さも知っている彼らになら、きっと最高のリングを作ってもらえるんじゃないかと思う。わくわく。







※注
もちろん、「そういう高度な技術こそ見せるべき」という意見もあろうが、技術自体を見せるジャグリングのような芸と違い、マジックは技術自体は裏方に過ぎない場合が多い。表に現れる部分と裏に隠れた部分と、どちらを優先して考慮すべきかは考えるまでもないだろう。
(ただし、コンテストなどの「マジシャンに見せるための演技」は例外。)






「コラム」にもどる