なぜ新聞を破るのか



「新聞紙の復活」という手品がある。いわゆる復活現象のひとつである。 この手品は「新聞破り」とも呼ばれる。英語では「torn and restored newspaper」と言う。 こうした名前が示すとおり、復活には前提としての破壊がともなう。

通常、ある現象を起こすには前提となるなんらかの状態が必要とされる。 例えば消失現象ならば、これから消失させるものがそこに「在る」ということ。出現現象ならば、出現させるものがそこに「無い」こと。変化現象ならば、変化対象がこれから成ろうとしている形態とは「別の形態をしている」こと、などである。 一連の流れを簡単に図式化すれば、

無→有(出現)
有→無(消失)
A→B(変化)

となる。右側が現象の目的であり、左側がその前提である。

復活現象の場合、前提となる状態は「死」である。しかし、多くの復活現象は、前提となる「死」を演技の中で積極的に作りだすことを特徴とする。 「新聞破り」を例とすれば、まさに名前が示すとおり新聞を破るという行為がそれにあたる。出現や消失の場合は、そこに無いから出現させ、そこに在るから消失させるのに対し、復活現象の場合は最終目標である「生」が既にそこにあるにも関わらず、わざわざ殺して、現象の前提を拵える。 図式化すると、

生→死→生(復活)

となり、上に示した出現や消失、変化などとは異なることがわかる。

新聞だから許されているものの、数ある復活現象の中にはこの流れが問題となる場合も多々ある。 たとえば、観客から借りた腕時計を破壊し、それを復活させるという手品。 一般的な感覚からしたらとてもとても、レパートリーに入れたいと思えるネタでは無いと思うのだが、どうやらマジシャンの中にはそうした感覚を持ち合わせていない人物も多いようで、大切な時計を破壊されて思わず真顔になっている観客を何度か見かけたことがある。 そうした観客を前にしてもなお、自分で壊した他人の時計を復活させて得意顔になっているのだから、正直に言ってマジシャンの品性を疑いたくなる。

……少々感情的な物言いになった。今はこんなことが書きたいのではない。

さて、このような時計の復活がなぜ問題となるのかといえば、復活現象の前提となる「死」を、マジシャン自身が作為的に起こしているからだろう。 死んだ人間を生き返らせるために殺人を犯すようなものである。 前提となる死が、あらかじめそこにあったものならば、このような問題は起こるまい。 つまり、以前から壊れていた観客の時計をマジシャンが復活させる、という流れならば、それは意味のある復活であり、観客としても素直に奇跡を感じることができるだろう。 ただ、それはあくまで理想であり、実際にそんなことが出来るかといえば難しいし、そもそも壊れた時計を持ち歩いている観客に出会うことなど稀であろう。

話を新聞紙の復活に戻す。 新聞は一種の消耗品だからこそ、復活の前提となる死を作為的に引き起こすことがそれほど問題とはならない。 しかし、正常なものをわざわざ壊してまた再生する、という流れはたしかに(不思議を見せることができるという点を除けば)あまり意味のないことだと言える。 もちろん、それはそれで不思議だから良いといえば良いのだが、もし、前提が作為的でなく、あらかじめそこに、自然と壊れてあったかのように見せられたならば、復活現象は奇跡へと昇華できるはずである。 かつて、デビッド・ブレインがこうした復活現象をテレビで行った。「ヒールドアンドシールドソーダ」と呼ばれる例の手品である。

彼が大勢のファンとともにニューヨークの街中を歩いている時、ふと、道端のごみ箱に目を留める。その中から、適当にひとつの空き缶を取り出す。当然、缶は潰れていて中身も空である。しかし、彼が少し念を送るようにすると、潰れた缶がゆっくりと膨らみはじめ、元の形へと戻る。さらに、開封されたプルタブを一撫ですると、未開封の状態に戻る。何食わぬ顔で缶を開けると、プシュッという音ともに開き、傾けると最初から新品であったかのようにジュースが流れ出る。

と、こんな復活現象であった。奇跡的としか形容できない。あのとき傍にいたリポーターは本当の奇跡というものを目にしたかのような表情をしていた。 デビッド・ブレインのこの演技は、前提となる死(この場合、飲み干され、潰され、捨てられた空き缶という状態)が、演者にはあずかり知らぬところに自然と存在していたように見えたからこそ、奇跡になりえたと言える。 もし、演者自ら缶を潰して、それを復活させたならば、これほどまでのショックは与えられないだろう。潰すことの無意味さが誰の目にも明らかだからである。

では、新聞破りにおいて破壊行為をともなわない復活は可能であろうか。 何年か前に、「No Tear Torn and Restored Newspaper」という売りネタが話題になったことがあった。最初から破られた状態の新聞を持って舞台に現れ、それを復活させるという演出である。たしかに、破壊行為はともなっていない。が、それはあくまで演技中に破っていないというだけのことで、破った新聞を持って登場する以上、事前に演者自身が破ったであろうことは容易に想像できる。ただ、これ自体面白いアイディアであるとは思う。

演者のあずかり知らぬところで破壊行為が行われ、死が自然と存在したように思わせるには、やはりデビッド・ブレインの例のようにするのが手っ取り早い方法であろう。 街中で、人々に踏まれ破れたボロボロの新聞を目にし、それらの破片をひとつひとつ拾い集め、復活させる。こうした演出は、新聞紙自体に仕掛けがないという印象を与えられるし、なにより新聞紙を拾い集めようとする時点で手が空であることを暗に示すことができる。要するに、エキストラの存在を言葉にせずとも否定することができるのである。拾い集めて復活した新聞にもちゃんと踏まれたような足あとが付いていれば、より説得力をもつだろう。誰かが捨てたゴミを拾うだけだから、自分で破壊行為をする必要はない。演者が行うことはすべて、復活に向けたポジティブな行為だけである。一般的な新聞破りに比べて利点の多いことは明らかである。

ただ、この演出の欠点はステージ上でできないことである。ストリートと違って、演者が登場する前にあらかじめばら撒いておくわけにもいかない。それでは結局、「No Tear Torn and Restored Newspaper」と同様、仕込みとして破かれたものであることが伝わってしまうからある。 では、ステージ上で無意味な破壊行為を伴わない新聞紙の復活を行うにはどうすればよいだろうか。理想的なのは、前の演技で破り捨てておく、ということだろう。たとえば、「タンバリン」のような演目を行えば、自然とステージ上には破かれた新聞がゴミとして残ることになる。 通常は次の演技との間にスタッフが片付けるだろうが、これを片付けなければよい。あるいは、片付けに来たスタッフ自身が拾い集めて復活させる、という演出でもよいかもしれない。いずれにせよ、舞台上をきれいにするためにゴミである新聞紙を拾い集め、復活させる、という流れならば、意外性も高く、上手くやればストリートの場合同様奇跡に昇華させることもできるだろう。

以上の二つの演出に共通して重要なのが、どちらもすべての行為がポジティブな方向にしか向いていないということである。一般的な復活現象は前提としての死を拵えるために演技の中に破壊行為をともなう。言うまでもなくこれはネガティブな行動であり、程度によっては先述した時計の例のように観客を不愉快にすることにも繋がる。 一方で、デビッド・ブレインの行った缶の復活や、上に示した新聞紙の復活は、意味のないネガティブな破壊行為は無く、最初から最後まで復活というポジティブな目的に向かっていく。 こうした流れはとても重要で、演技の中に意味のないネガティブさがあればあるほど、せっかくのポジティブな現象が相殺されて、効果を薄めてしまう。 極端な例を出せば、自分の時計を破壊された観客が、最終的に時計が復活したとしても「あんたが壊したんだからあんたが直して当然でしょ」と思ってしまったり(ちょっと極端すぎるか)、或いは、壊れたことの不安や直ったことの安心のほうが勝ってしまって、素直に現象を楽しむことができなくなってしまうという事態も起きかねない。 演技中のすべての行為に意味づけをしなければならないとは決して思わないが、「なぜ新聞を破るのか。どんな必要に迫られて破るのか。」といったことを自分の中で(仮に演出に反映させないとしても)考えているかどうかという違いだけで、同じ現象でも大きく見え方が変わってくるのではないか、と思う。



Robert Harbin
Robert Harbin Torn and Restored Newspaper (Youtube)




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